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3-1、我古里で、生きる!

2019年09月25日 06:00

(2)中備産業設立

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LAB設立後の、3人のそんな厳しい生活の中で、大阪時代に別会社の出向した先輩より図面を書くアルバイトの依頼が有った。営業活動を苦手としたクロセ氏は、週始めの三日程をそのアルバイトに・・・。ノナカ氏は、LAB営業のかたわら電気店の訪問販売も・・。私は、倉敷音楽友の会を結成する等忙しく、その人脈でコンサートの企画も出来るようになり、少しずつ広がる。それに合わせてPAの仕事も少しずつ増えた。とは言え、それぞれギリギリの生活でしたから・・・。クロセ氏は、その後アルバイト先の会社へ転職する事を決意した。暫くして、ノナカ氏も営業担当していたライバル同業他社へ転職に希望をみつけた。3人のLABは、わずか5年弱でしたが、それぞれの生活や将来を考えると、引き止める力も説得出来る希望も私には、指し示せ無かった。
1人でのLABになってからも、その仕事の量は何故か、変わらなかった。むしろ、それまでの活動の効果が出始めて・・特に、土・日・休日が忙しくなるのですが、幸いその時だけお手伝いをしてくれるサラリーマン音楽仲間も周りには増えて居て・・何とか、その後も細々と「LABと唄活動」を両立させ続ける事が出来た。

丁度その頃、父が定年退職の時期をむかえ、その会社の下請けを自営で引き継ぐ話が有り、父から相談を受けた。私には、グッドタイミングで手伝う事にした。自宅の裏山に有った畑地の殆んどを、住宅団地計画のために手放したが、一番南側50坪ほどを残していた(現在は、息子の新居を建築)ので、そこにプレハブ工場を建てて開業。当初は忙しく、家族総出でお手伝いの家内工業でした。私も材料の引き取りや納品のトラック運転手、時には現場でその製品の設置を手伝ったり、ペンキ塗りもしました。私のPAや出演スケジュ-ルとの調整に、微妙にヤキモキしたのか、父は61歳で普通免許取得した。購入した軽トラックのクラッチは、一年で交換する程でしたが、この頃より父の充実した笑顔が見え始めたのが、何より嬉しかった。

幸せな日々は、続かないものです。手放した土地に、引越して来た近隣住宅からの苦情が市へ投書された。その事で市の立ち入り検査が入った。幸い、プレハブだったので、行政指導だけで済んだ。父は「わしが、先祖伝来の土地で何をしようが、後から来た人にとやかく言われる筋合いは無い!」と怒り、毎夜お酒の量が増えた。今から思えば、この時のストレスが後の発癌の原因では・・・とも思える。知り合いの不動産屋さんの仲介で、近くに倒産した「鉄工所」が見つかり購入した。建物は古いけど・・補修すれば、まだ使える。ほぼ土地代金(70坪程)だけで取得出来る。元父の会社の社長より、使用していない機械や工具等の支援や経営アドバイスも有り、購入する事になった。ついでに、LAB事務所も経費節減にもなるから移転して同居する事にした。私が、音楽やPA等の仕事も続けられるように!と、父が両方の仕事に使える社名を考えてくれて、1986年5月「中備産業」を設立した。

景気は相変わらずで、生産性の低い鉄工所など倒産が報じられる中、製造単価もオープンで値下がり続けていた。根っからの負けず嫌いな職人根性の父は、他よりも安く早く出来る!と受けるものの、量産ものは親戚一同も巻き込んでの徹夜操業で、忙しいけど儲からない・・トントン経営でした。一品ものは、父の得意で本当に見事でした。それは、正に芸術品でした。本業が暇な時に作って貰った、PA用のスピーカー・照明スタンドやイントレやゴミ箱・等、父の遺作品は今も「音楽舘」の中で生きています。

下請け的な量産品仕事以外に、独自の一品物製品の受注製作が生きる道だと、私も少し動いた。取引の有った音響機器メーカーより、ある宗教団体の本堂の天井に、角度が調整出来る構造の吊り下げスピーカー台を受注した。同じく舞台・照明レンタル会社からの特殊照明器具のコピー改良品等も製作した。バックギターのクスド氏が自営していたTシャツ・プリント業の刷台も市販商品より安価でコピー製作した。私が大阪時代に経験した営業や設計や音響の技術がここで活き、父のその職人製作技術が可能にした、親子協同作品たちでも有った。子どもの頃も、倉敷に帰ってからも、あまり見た事が無い父の笑顔が、だんだん多く見えるようになった事が家族皆の喜びでも有った。この頃から、暇な時は・・私のコンサートへも積極的に足を運んでくれるようになったが、その身体はもう癌に侵され始めていた。6ヶ月に一回の定期人間ドックの甲斐も無く末期癌を宣告された。二度の手術をしたが、1991年6月15日他界した(享年68歳)。

父が他界する一年程前に、「マスカット球場」の建設計画が浮上した。JRの中庄駅から、マスカット球場までの道路用地として「中備産業」は、立ち退きを要求された。父の鉄工所と私の音響との両方の営業が成り立つ代替地を立ち退き条件に出した。丁度この頃、奥津の苫田ダム阻止同盟から、うたの創作依頼が有った(「よみがえれ奥津」創作)。ダム建設のために古里を追われた、その心情をヒシヒシと感じられてタイムリーに創れたように思う。父の他界後は、立ち退き条件が音響だけだったら・・・と、現在の「倉敷市羽島を代替地」として斡旋され要求を呑んだ。
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当時、「僕らが唄う所が、音楽舘!」と、創造集団「音楽舘」で活動していたから・・・夢の又夢だったライブ・スタジオ音楽舘が、現実身を佩びて来て・・・そして、「音楽舘」建設への準備が始まった。

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