自分で自分は見えないから・・・とても嬉しかった。写真だと必要の無いものも全てが写ってしまうけど、絵は見えるもの感じたもの書きたいものだけを書けるからいい。必要であれば、省略することも追加することも、又別の景色を組み合わせる事も、簡単に可能だ。そう言う点でも、唄とよく似ている。だからと言って、全くの想像や
思い込みでは無く・・いつも現実からの投影で有り、必要な事を伝えたい事を
ノンフィクションで表現したい!と、思っている。
実家の前が公民館で、色んな講座(塾)が開催されていた。小学生の頃はみんな挙って、最低でも「書道」や「珠算」等の講座に、やむなく参加させられていた。厳格(貧乏?)な父からは、ひとつだけを許された。特に意味も無く「珠算(そろばん)」に参加した。友だちと一緒にワイワイ騒ぎたいだけで参加している子どもたちが殆んどで、自分も同じだった。2年生の頃に水彩画の講座が開講され、何故か?参加していた。参加者は、私を入れて2名でした。1年ぐらい続いた頃、突然先生が来られなくなり・・・自然閉講されたような・・・。
小学校5年生の「写生大会」で、
黒い窓ガラスを書いた。(
関連)
校内や市内の「~週間」や「~大会」の絵画コンテストで、何度か入賞した記憶がある。
大きくなったら何になる?そんな質問に、何故だか?「
ペンキ屋さん!」と嬉しそうに答えていた自分を思い出した。
大阪に就職して(
関連)寮生活(だいたい、みんな3年が限度)から、アパートで一人住まいに・・・。寮が阪急宝塚線沿線だったから、京都線沿線に憧れて決めた。四畳半のアパートは、生まれて初めての「自由」を感じたが、炊事・洗濯・掃除・・・に、「自由」って何んて「不自由」なんだろう!とも感じた。隣の部屋を気遣いながらギターの音も声も抑えながら唄い、独りの寂しさを紛らわしていた。そんなある日、向かいの部屋に住んでいた人が、ウイスキー(サントリー・レッド)を持参で「一緒に唄わせて下さい!」と入って来た。やっぱり「歌」は、一人より二人で唄う方が楽しいね。それから、ちょくちょく一緒に唄いましたが・・・お互いに名前も知らない(忘れた)けど楽しかった。彼の部屋にも招かれて唄ったが、どうやら絵描きの卵のようで部屋中キャンパスだらけだった。急に絵が描きたくなって、彼に油絵の具と画材を一式揃えて頂いて描いた。油絵は、初めてで・・・「何度でも上塗り出来るから」と彼から励まされ、約2ヶ月ほどで描き上げました。JAZZのレコードのジャケット「夕陽に赤い帆」を見ながら・・・・。

完成品を見てもらう前に、彼は引っ越した。後にも先にも、多分一枚だけの「油絵」ですが・・・音楽舘に飾られた「絵」を見る度に、彼との事を思い出すが顔も名前も思い出せない。
これも、やっぱり「
人権トーク&コンサート」のトーク・ネタなのですが・・・。
★息子が3歳の頃かな?人間の顔を書くのに異常に大きな耳を描いていた。目や鼻や口は、ちゃんと顔の中に納まっているのに、耳だけが顔からはみ出していて・・・子どもの目線には、その耳はとても重要に見えたのでしょうね。その絵を見た彼の母親が「
そんなに、耳がデカイか?」・・この一言で彼は、それ以後「異常に小さな耳」を描くようになった(笑)。大人の一言が与える影響の大きさを感じた。母親の胎内に居る時は、まだ目は見えないけど耳は聴こえている。生まれて暫くも見えない目が、見えだすと耳よりも「力」を発揮する。「目」と「耳」と言う文字を、じっと見ているとちょっと似ているけど「耳」の方が、余分な線が多い分「偉く」見えた。それに、目は心の窓であって「心」では無い。耳辺に心と書いた「恥」を見つけた時、耳には心も有ることを確信出来た。
★そんな息子が、小学校の2年生の頃「
ザリガニ」の絵を描いた。それが優秀?とかで、校長先生の部屋に1週間ほど飾られるとか・・・。小さい頃から、変わった絵を描いていたから・・・ひょっとしたら、絵の天才かも・・・。ホームセンターで額縁を購入して、絵が帰ってくるのを待ちました。帰ってきた絵を見て、予想以上の出来に家族みな驚きでした。普通、小学生だと赤い絵の具で塗り潰される所が、橙や紫や黒や・・・色んな色で塗られた「ザリガニ」は、まるで生きているようにリアルで、額縁から飛び出して来そうでした。「凄い!」「素晴らしい!」と、褒め称える家族に、照れ草そうに小さな声で一言!「
赤い絵の具が足りなかった!」(笑)。本当は、全て赤い絵の具で塗りたかったのに、足りなかったから・・・ザリガニの背中をじっとみつめていたら、多分色んな色が見えたのだと思う。赤い絵の具を必要なだけ買えない貧しさが、結果的に、この(優秀な?)作品を描かせたのでした。無い!足りない!と言う事が、有る!と言う優位性を超えた瞬間だった。
ある小学校でのコンサート感想文では、「赤が足りなかったのでは無く、息子さんの感性が描かせたのだと思う」とか、「八木さん!額縁を買うお金が有ったら・・・息子さんに、赤い絵の具を買ってあげて下さい!」など・・・本当に、子どもたちは色々、素敵な感性を教えてくれますね。
※人権トークで話すたびに、その絵が見たい!の声が有り・・・ずっと探していたのですが、行方不明。でしたが・・・ついに発見しました(2019/08/27)。2018年1月、母が他界して・・・開かずの間たちを片付け中に発見!。当時の感動が、いかに親ばかで少し話が盛られている事(足りなかったのは、青色絵具だったようだ)にも気付かされたが、やはり小学2年生にしては流石の完成度だと思う。音楽舘を建設して「
フォーク・スクール」を再開。第5期生として、高校生3人が入学して来た。その内の一人(ノダ君)は、画家も目指していた(彼の作品もロビーに掲示)。何故か、息子と息が合い・・・後の二人も誘って、度々音楽舘で「徹夜麻雀」も・・・。午後の西陽が特に厳しい音楽舘の玄関には、夏の間「簾」を立てていましたが、何を思ったのか・・・その「簾」に、絵を描こう!と意気投合した二人が、真夏の炎天下に汗だくで書き上げた超大作(1800mmW×2400mmH)でした。現在も、音楽舘ロビーの吹き抜けの天井に展示中です。

ノダ君は、高校を卒業後名古屋の「美術の専門学校」へ・・・一年後、帰省して「専門学校には、求める世界が無かった!」と、美術大学を目指すと報告を受けた。その後、結婚するとか?とも言われていましたが・・・・きっと何処かで働きながら、まだ描き続けているでしょう!。
倉敷の養護学校からの依頼で「コンサート」。交通費程度しか支払えない!と申し訳なさそうに頭を下げられる校長先生に、「確か?油絵も描かれていましたよね」と冗談で伺うと、後日作品を持参して頂きました。そのイルヤ校長先生の絵には、必ず何処かに何故か「貝」が描かれていた。「貝」が「口」を開く=私の「唄」との一致点を見つけた気がして嬉しかった。「全国創造美育」と言う団体にも加盟されて活動されていた様で、その後も何度かその場でも唄わせて頂いた。岡山市・ふれあいセンターのロビーに大きな壁画も描かれたとも聞く。私の宝物がまたひとつ増えました。

書く!と言うこと、描く!と言うこと・・・それは、その事実を見つめる事から始まる。そして、それは描く・書かないに関わらず「そこにある」事も知る。必要だから、そこに「ある(輝いている)」と言うこと。そして、その中の何処かに自分も隠れていると言うこと。だから、売るためや見せるためでは無く、生きるために描いた絵(唄)は、それだけでも十分意味は有る!と思えるのだ。

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